卒業生の皆さんからの
全国各地の志布志高校卒業生からの
第1回 昭和二八年(高五回)卒
私が志布志高校に入学したのは、未だ大東亜戦争の敗戦が色濃く残る昭和二五年春。入学式には父からもらった軍服を着用、軍靴を履き、さながら士官学校に入学するような姿であった。食糧難はまだ続き、学校の制服も入手困難の時であったから、軍服姿であっても少しも恥ずかしいという気持ちは無かった。
旧正門を入ると左手に用務員室、その前には山から引いて、その落差を利用した水飲み場があった。さすがにこの水はうまかった。
校舎は旧制志布志中学校の木造平屋の建物が、海岸方向へ三棟が並び、お互いに中央廊下で繋がっていた。
その中央廊下の先には、体育館兼講堂があって、入学式はそこで挙行された。また、入口の上部には、学校の教育理念を示す額が五枚掲げられており、旧中時代からの引継ぎかと思われるような古ぼけたものであった。
今の香月小学校の付近に六棟の寄宿舎が並んで建っており、大隅半島で唯一の県立中学校にふさわしく、各所から英才が集い、中学生活を満喫していたことが伺えた。有名な海老原画伯もこの寄宿舎で学生生活を送り、卒業していったと過日の新聞記事で読んだ。
校庭は、周囲に、松の大木が繁り、校舎の脇を当時の国鉄志布志線と古江線が走り、校庭を汽車が横切って走っていると言われるくらい、広く且つ「学び舎」にふさわしい環境であった。
今、家電量販店が立っているあたりの近くに池があり、昼食時には、学友とその周りの木立の陰で弁当を開け、食後には寝転んで人生論等を語り、また女学生の噂をしたものだった。
当時の高校の校舎は、旧制中学校(明治四一年設立)の建物をそのまま引き継いだので、色々と普通と異なる教室があった。例えば、物理の教室は広くて実験設備を備え、また生物の教室も周りに動物の剥製等が並べてあった。この生物教室が私の一年生の時の教室でもあった。
また、運動場の手前には、赤瓦の洋館風の図書館が建っており、これが更に「学び舎」に色を添えていて、私が入学を決めた原因の一つにもなったものである。現在、90周年事業の一環として、新しく鉄筋コンクリート製の同窓会会館が造られたが、従来の木造、且つ洋風の図書館とは似ても似つかないもので、何故このような平凡な建物(噂では金八千万円もかけてたという)を建てたのか不思議でしょうがない。充分な時間をかけ。且つ知恵を出し合って検討の上、建築してたらと、今思うと悔しくて涙が出てくる。
旧制中学校は、県下六番目の中学校として建てられたので、木造の建物であったためか、シロアリの被害を受け、そのため建て替えられたのが、今の校舎である。従前の木造校舎は、いわゆる「学び舎」というにふさわしい雰囲気があったが、現在の校舎は、平凡で、且つ無機質的であり、「学び舎」としての特色が全くないと感ずるのは、私一人だけだろうか。
今の志布志高校は、旧制中学校・旧制女学校の良き伝統を受け継いだと言えず、平々凡々のままに、少子化の波に飲まれ、消えていくかと思うと心から情けなくなる。
どうか志布志高校の同窓生の皆さん、良き伝統ある「学び舎」にしようではありませんか。